このお寺は


 井伊家の家臣やその関係者たちの祖先が眠る彦根の古刹、曹洞宗萬年山長松院。その歴史は四百年を超える。

 故事によると善利川(現芹川)の中州において、慶長七年二月一日、太守井伊直政朝臣が四十二歳にして死去、生前より遺言されていたこの地において火化し骨灰遺物を埋葬、塚を建立しその傍に廬を建てる。国臣脇、越石、秋山三氏をこの守護となす。同年三月八日、甲斐国より禅僧として名高い貴山永胤大和尚を開山に迎え、井伊直継公によって慶長七年六月二十八日禅堂をつくり祥壽院(井伊直政公の戒名 祥壽院殿清涼泰安大居士より)とした。のちに萬年山長松院と改め現在に至る。なお、萬年山の萬は直政公が徳川家康の小姓をしているときの名前「萬千代」より、また長松院の松は幼名「虎松」より頂戴する。

 享保五年六月二十五日、文化十四年十一月二十六日の二度の大火によりその大半を焼亡したが、当山十五世香山俊長大和尚の代に檀徒との話し合いのもと再興された。

 本尊は釈迦牟尼仏で、境内地には子供の守り本尊である地蔵願王尊、火伏の神様である可睡斎より分祀した三尺坊秋葉権現、墓地内には直政公を荼毘に付した記念碑、本堂には魚籃観音や、十六羅漢像や聖観音、文殊菩薩、その他にも貴重な仏像が安置されている。中でも秘仏とされた千体阿弥陀如来像は、享保三年二月、蜂須賀宗英公(阿波徳島藩第七代藩主)より阿弥陀堂補修のための金百両とともに寄進されたものである。寺の言い伝えによれば、蜂須賀宗英公の養女である元姫の菩提を弔うための寄進であったといわれる。

 本堂玄関から入ると正面には、当時方丈(曹洞宗での住職である僧侶の尊称)が登城の際に使った朱塗りの籠が飾られ、また大本山總持寺独住四世中興牧牛素童大和尚直筆の額などが飾られている。山門には曹洞宗中興の祖とされる月舟宗胡大和尚揮毫の「萬年山」の額、法堂には千丈実厳禅師揮毫による「正覚殿」の額が飾られており、常額寺(常に額を掲げているお寺)としての格の高さが伺える。

 当院は彦根の中央に位置し、末寺五ヶ寺を有する。