第一生命保険元社長石坂泰三氏のことば。
人生はよく長い坂や登山に例えられます。
しかし我々凡夫はいつも目先の欲、目先の成功、目先の競争に惑わされます。
試験でいい成績を収めた。
名門大学に合格した。
同期のあいつより先に出世した。
それはそれで素晴らしいことです。
頑張りが日の目を見たのですからそれは大したもの。
達成していない人間が批判するのは筋が違う。
しかし、それだけが人生の全てではない。
生を得たものは、必ず年を取り、病に罹り、必ず死を迎えます。
大切なのは”対誰か”ではなく”対自分”
身罷る際に、どれだけ自分の為したことに満足することができるのか。
私の大好きなみうらじゅん氏がこんなことを言ってました。
『死ぬ時の最後の言葉は”ああ、楽しかった”にしたい』
私も今際の際に『ああ、楽しかった』と言いたい。
その言葉を遺すために、誰かとする競争は程々にして、にこやかに逝きたいと思う今日この頃です。
知らない日本人はいない(であろう)臨済宗の僧侶、一休宗純禪師の言葉。
とはいえ、おそらく本当に一休さんの言葉ではなく、江戸時代にできた一休トンチ話的な物だろうと思います。
一休さんが遷化(亡くなる)前、枕元に弟子たちを呼んでこう言いました。
「いいか。ワシはもう直ぐ死ぬ。ワシの死んだ後、お前たちが困難にあい、どうしようもなくなった時のためにあるものを残してある。どうしてもワシの助けが必要になった時、その時この箱を開きなさい。必ずやお前たちの救いになるだろう」
大きなお寺の住職である一休さんがいなくなった後、お寺は大混乱。
残された弟子たちは右往左往。
どうしようもない状態に陥ります。
そんな時、弟子の1人があることを思い出しました。
「そうだ!師匠が身罷る前、困った時に開けなさいとおっしゃっていた箱があったぞ!」
「そうだそうだ、私も聞いた! 今がその箱を開ける時だ!!」
喜び勇んで箱を取り出し、恭しく箱を開けます。
すると中には何やら巻物が三幅。
「何か問題を解くヒントが書いてあるのかな??」
訝しみながら巻の壱と書いてある巻物を開きます。
そこには『大丈夫』とだけ書いてある。
ん???
はてなマークをたくさんつけた弟子は、巻の貳を紐解くと、そこには。
『何とかなる』と書いてあるではありませんか。
あちゃー、師匠のいつものやつかー。
そんなことを思いながら巻の參を開いてみると…
案の定そこには『心配するな』と書いてありました(笑)
このお話が嘘であれ本当であれ、そこに大した意味はありません。
禅宗の僧侶としての生き方がわかりやすく説かれている、その一点に意味があるのです。
人はあれこれ心配し、悩み、苦しみます。
それも心配してもしょうがないことを心配し、悩んでも何も解決しないのに悩み、苦しむ必要もないのに勝手に苦しむのです。
過ぎた過去を悔やんでも戻ってはこないし、まだ見ぬ未来を恐れても解決策は見つからない。
我々は常に『今ここ』に生きているのです。
今を懸命に生きていれば、大抵のことは何とかなる。
”焚くほどは風が持てくる落ち葉かな” 良寛禪師
この歌を初めて聴いたのは、法相宗台本山薬師寺管主故高田好胤猊下のお説法の中でした。
なんとも世の真実を面白おかしく切り取ったもんだなあ、とそれこそ手を打って感心したものでした。
我々は皆独自のルール、独自の見方で世の中を見ています。
手を打てば「誰か喜んでいるのかな?」と思う人も居れば、「神様に拝んでいるのか、殊勝である」と感心する人あり。
犬はびっくりしてしゃがみ込み、蚊は殺される!と一目散。そしてこれが釈尊の言う『我見』つまり色メガネで世界を見ると言うことです。
これは我執と言い換えてもいい。
我という、ありもしないものをあたかもあるように勘違いするから、自分ルールが発生し、苦しみを発生させるのです。
では、禪において「手を打たば」どうなるのでしょう?
答えが知りたい人は一緒に座ってみましょうか。
答えがわかるかもしれません。
英語にしようかと思ったのですが、対応する言葉が見つからなかったので割愛しました(笑)
日本語とは本当に豊かな言語ですね。
降ってくる雨はどれも同じで、雨は我々の都合や気持ちなどお構いなしに降ってきます。
”嫌だなあ”と思う長雨も、受け取り方によって全く意味が違ってきます。
雨降らば降れ 風吹かば吹け は一休さんの大悟の下句ですが、その心境にあれば梅雨も五月雨も麦雨も黴雨も全て同じ雨。
恵みも迷惑もありません。
(最近は線上降水などという厄災もありますけどね)
あなたの心に降る雨はどんな雨ですか?
言わずと知れた文豪、武者小路実篤の言葉。
やらなければいけないこと、わかっちゃいるけど始められない。
やめなくてはいけないこと、わかっちゃいるけどやめられない。
よくありますよね。
偉そうに述べる、かくいう私。
全くこの通りなのです。
でもいつか、本当に立たなければならない時に、
『まあ、もう少し坐ってゐよう、さあ、俺も立ち上がるかな』
となれるかどうか。
坐禪も打坐と経行とでバランスが取れていますからね。
生きる、ということだけでも見方が変わるとこんなに違うんですね。
面白い考察だと思います。
しかし、禪において生きることは喫茶喫飯。
さらに言えば、朝起きて、昼働いて、3時のお茶をして、夜寝る。
これが禪的な生き方です。
どのように生きるか、なぜ生きるのか、自分とは何か、問いそのもの、問い続けることそのものは大切なことです。
しかし、その問いのみにこだわり、悩み、立ち止まっては意味がない。
猫はそのままで猫<(*ΦωΦ*)>
犬はそのままで犬U・x・U
人間だけがそのままでいられない。
犬猫のように生きろ、という意味ではありません。
しかしありったけの自分で生きる。
一瞬一瞬を懸命に。
お茶も真剣に飲むし、ご飯も真剣に食べる。
これこそが禪であり、生そのものなんですね。
気になった方は長松院で一緒に座り、掃除して、お茶を飲みましょう。
アイルランドの劇作家、ノーベル文学賞受賞 (1856~1950)バーナード・ショウのことば。
かく言う私も、自分を探しに外に出ていったクチ。
十年ほども探し歩いて、ようやく外にそんなものはないと気づき、今度は内なる自分を探してお坊さんになり二十数年。
そしてこの言葉に出会いました。
もう少し早く気づけたらよかった…。
多くに人はこの問いに『そりゃ自分のためでしょ』というでしょう。
それは確かにそのとおり。
自分の人生、悔いのないように一所懸命に生きる。
当たり前のことです。
しかし我々は、自分のためだけにしか生きられない、そんな人生は寂しいものだということも同時に知っています。
親があり子があり、友があり伴侶があり。
太陽があり星があり、自然があり物質があり。
それら全てのものが存在するから、自分が生かしていただけていることを知っています。
だから少しだけ、自分の周りの人のために生きてみましょう。
できる範囲でいいんです。
そうすれば世界は少しずついい方に変わっていくと思います。
さあ、今日は誰の為に生きようかな。
久々の住職オリジナルの言葉です。
これは常々思っていることで、心がけていることでもあります。
私がまだ学生だったころ、中国語の先生からこのように言われたことがあります。
「お金や財産は配って仕舞えばなくなります。しかし、知識はいくら配っても決して減ることのない一生涯の宝です。今のうちにたくさん知識を貯めなさい」
今、この言葉は私の中での肥やしとなっています。
そして出た結論は『知識は智慧に昇華しなければ誰かのものにはならない』
德も同じタイプのものだと考えます。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(宮沢賢治)
自己が他己に得をもたらせば、他己はまた別の他己に得をもたらします。
そしてその得=幸せの連鎖はやがて世界全体を巡ってそれがいつしか個人の得=幸せとなり自己に返ってくる。
世界が不安定になっていく今日この頃ですが、人は自分のためだけには生きていけない社会的生物なのです。
願わくばこの功德を持って遍く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に幸せでありますように。