長松院は、彦根の外郭に居す、初め慶長辛丑の年、直政井公、采地を江表に賜ふ、郡に蒞むの翌年、佐和山の故城に薨ず、臣子地を択て、委骼を
火化し、これに就いて骨灰を瘞み、封して冢となす、従葬の兵器、咸く皆埋蔵して、司属脇・秋山・越石の三氏をして、昼夜番を輪して、奉してこれを守らしむ、陸司空の故事のごとし、然るに三氏は固とに勤むるに忠孝を以てすといえども、士は常の職あり、特に永任の業にあらずして、冢辺の灑掃は、尤も一日も以て廃することあるべからざる所なり、是において永胤老子を甲州に起して、これに告げるに所蘊を以てす、胤は元と越石の族に生まれて、出家遊方、徧く名
宿に参す、その命を受るに迫りて、杖盂(応量器)得得として来たり帰る(落ち着く)、乃ち冢を掃て桂樹を種え、地を画して経界を定め、これに廬(いおり)して、萬年山長松院と云ふ、唯如在の神儀を無窮に祀享するのみならず、蓋し蕙(うつくしい・かぐわしい)子蘭孫幹植ち枝蕃きの兆に取てなり、猶後の人をして名を問ひ実を覈べ視て遺ることなく、以て永く保ちて墜ることなからしめんことを願ふなり、茲時草昧、院なお備ざる所多し、長応に至りて院増々以て済なる(整い揃う)、応の結制を啓建するに当たって、直孝君僧糧米二十斛(石)を賜ふて用いて
衆食を贍はす、然るに院火を戒しめずして、殿堂門廡(ひさし)尽く烏有と作る(火災にあって家財を失う)、又複判金十枚を賜て、以て営治に充つ、是に因て衆屋よろしく有るべき所の者の、悉くこれを更め作る、その肇興してより今に至りて一百四十年、その間渉世の蹟、或いは新営の殿舎、或いは鬱攸の連禍、時に臨みて皆人工材木を賜う者の数たび、具さに別記に在り、書せざる者はその同じきことを示せばなり、今の住持即ち火後の荒凉を受け、居ること十年、志を励まして新たに大殿を作る、深
穏精緻、人意を悦可す、且つ敝れたる者は修し、闕たる者は増し、百順会同して内外交々挙ぐ、便ち院の顛末を以て記を余に嘱す、惟即ちこれは久しく滅宗老人に参す、滅宗の弁、海濤を激すれども、しかも一切の言句は皆糟粕なりと曰ひなり、機雷電より迅けれども、しかも寒水の雁影示すに無作を以てす、四海を杯観し、三乗を奴呼すれども、特に是遊戯のみ、道は斯にあらず、即ち、道を聞くこと既に熟して法施に主たるとき則ち院の盛衰、身の欣戚、即ちこれにおいて何か
あらん、然りと雖も学己が為にして用に適すると、時に乗じて人のためにすると、倶に信を天下後世に垂れてこの民を風動して、彼をして幾及ぶべきことをなして、頼って徳に進ましむ、是先聖果たして能く相与にもって成すことある所以の者にして、吾法遺教の大本なり、それ諸を忽せにすべけんや、すなわち叢林に飽きて、才徳の美、克く人を服す、これ則ち、世の素より見聞する所にして、もって大化を寄せ宣ぶるに足れり、若し夫れ見聞すべからざる者は、言の及ばざる所なり、吾豈敢えて能く記せんや
寛保元年(1741年)次辛酉(8月)、東溟老衲七十一歳これを記す
平成二十九年九月七日
野田浩子先生 訳