徹玄老師と私とMI。

今月4日、マサチューセッツ州モンタギューにて、徹玄グラスマン老師が遷化されました。

79歳でした。

 

私が老師に初めてお会いしたのは、東京にある桐ヶ谷寺のご住職「黒田純夫老師」のご紹介の元でした。

当時私は本山での修行を終えて桐ヶ谷寺で納所(なっしょ)と呼ばれる、お寺のお手伝いさんをさせていただいておりました。

黒田老師は、1970年代にアメリカに渡り曹洞禅をお広めになられた前角博雄老師の弟さんで、前角老師の一番弟子であった徹玄老師とは兄弟のような関係でした。

長いヒッピー生活のおかげで少しだけ英語が喋れた私は、黒田老師よりある特命を言い渡されました。

 

それは徹玄老師の通訳兼ドライバーでした。

 

徹玄老師はカリフォルニアで前角老師から印可を授けられた後、故郷のニューヨークに戻り、禅の教えを基本としたホームレスの社会復帰のためのチーズケーキ工場立ち上げやエイズ末期患者のホスピス設立、シングルマザーのための保育所作りなど、精力的に活動を続けられました。

そしてそれらの活動が安定して続けられることを確信した後、それぞれの事業を後進に譲り、自身はマサチューセッツ州モンタギューに移り住み、そこにMaezumi Institute(前角禅研究所)を設立。そのMIへの宗門からの金策のため来日していた老師の通訳兼ドライバーに抜擢されたわけです。

 

二、三日行動を共にしていたある朝、デニーズで食事をしながら徹玄老師がポツリとこう言いました。

 

「後三日で私はアメリカに帰るんだけど、一緒にアメリカに来ない?」

 

私の何を気に入ってくださったのでしょう。

禅僧らしからぬ危うさを持ったできの悪い後輩僧侶に危機感を抱かれたのかもしれません。

二つ返事で了承を、と言いたいところでしたが流石に三日後では私も動きがとれません。一ヶ月後にお世話になります、と約束をして彼は帰国の途につきました。

 

この彼との邂逅がその後の私の禅僧としてのあり方や禅そのものに対する考え方を根底から覆し、今の私を形作っていると今では確信しています。

あの時老師がアメリカに誘ってくれていなかったら、私は今でも坐禅嫌いの禅僧であったことでしょう。

 

アメリカでの暮らしは決して楽なものではありませんでした。

MIの資金繰りがうまくいかず、給料は私と嫁さんと合わせて1000ドル。

食べていくのがやっとでした。

 

しかしながら、私がそこで学んだアメリカ禅は日本の禅にはなくなった柔軟さと躍動感がありました。

決まりにとらわれない、因習にとらわれない、人目にとらわれない。

 自由な禅風がアメリカ禅の特徴です。

 

 

アメリカ東部の伝統的な農家の納屋を改造した禅堂がそこにはありました。

まさに野中の一軒家。

冬には何メートルも雪が積もります。

 

 

宿舎には暖炉があり、参禅者はそこに集まり談笑します。

 

 

老若男女みんなが集まれる場所、坐れる場所、笑顔の生まれる場所。

そんなところがMIでした。

禅堂はいわばホールのようなもの。

坐禅だけではなく様々な催し物をする場所です。

ヨガも、ダンスも、コンサートも。

時にはクラウン(日本ではピエロと言いますが、本来ピエロは悲しい道化師で笑いを取る道化師はクラウンと言います)のステージも。

 

 

アメリカなので畳は手に入らないため、体育館のような仕様。

そのため座布団と坐蒲を一緒に使って坐禅します。

 

 

これまで全く気づいていませんでしたが、どうやら私が今目指しているお寺のルーツがここにあります。

 

老師の禅の教えや思い出についてはまた次の機会に譲ることにいたします。

 

老師、これまでお疲れ様でした。

あなたの教えは、日本に逆輸入した私がほそぼそと伝えてまいります。

 

前角老師によろしくお伝えください。

紀洋九拝