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目に見えないものへの恐怖と祈り。

嫌だなあ、鬱陶しいなあ、などと人並みに文句は言っていたものの、やはりどこか他人事だったコロナウィルス騒動。

しかし本日、ついに近所にクラスターが発生。

 

彦根のクラスターについて。

 

対岸の火事では済まされなくなってきました。

「本当に大切なものは目に見えないんだよ」は星の王子さまですが、本当に怖いものもまた目に見えないのですね。

 

こんな恐怖の中でウィルスと対峙している医療関係者の皆様に心より敬意を表しますとともに、1日も早い事態の収束を心より祈念致しております。

 

また四国•香川の野田老師曰く「回向に『凡そ禱祈あれば必ず感應を蒙る』とあるが如く我々僧侶もまた祈禱すべきではないか」

私のような凡そ法力などというものからかけ離れた僧侶の端くれが、いくら祈禱しても知れたものかも知れませんが、老師の言葉に感化され本日より祈禱始めました。

奈良の大仏さまも、ウィルスの猛威に怯えた民衆に応えるために建てられたものだとか。

 

令和の時代になっても人は祈る事をやめません。

そこには「願い」とは違う自利利他の心があるからやも知れません。

 

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コメント: 2
  • #1

    双輪転者、小池 (火曜日, 28 4月 2020 01:28)

    むかし、夢窓問答のなかに、『一切世界の事物はことごとく一心より起こる』という三界一心というのを読んだことを思いだしました。自分の親兄弟は自分の身体の延長。またそれを発展させれば、隣人たち、遠隔にいるひとたちも、すべて自分と同じつながっている者と考えれば、その中で、ぼうだいな人々のネットワークの一点での祈りは、すべてに波及すると思います。私たちのこころは日々の習慣とは不可分。たぶん、今回のコロナウイルスのことをきっかけに、『他人に移さないため、他人のためも思って、些細なことにも気をくばり、自分の健康も、他人の健康をも思いやるという機運がひろがると良いなと考えています。ウイルスをもらわないように気をゆるませず、生活の細部を習慣づける。お寺へつどえなくても、こころを落ち着けるために一人でも坐ってみる、神社のお札はお参りに行けない時に家でのお参り用のポータブルなしかけですから、外出自粛でもできることは多いと思います。

  • #2

    山主 (火曜日, 28 4月 2020 08:00)

    双輪転者、小池さま。
    いつもありがとうございます。
    インドラのネットのような考え方ですね。
    私もそういう考え方は大好きです。
    アメリカにいるときにお世話になった老師から「右手はアンナ、左手はマイケルだ。アンナが流血しているならマイケルは何も考えずすぐに止血するだろう。それが我々人間の関係だ」と教わりました。
    仏壇もお札と同じ考えですよね。