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新製陸舟奔車、高校生版。

二百五十回忌も終わり、少し落ち着きを見せた平石久平次翁と新製陸舟奔車ですが、近所の高校生が興味を持ち、自分たちで復元させようと頑張っておりました。

 

 

実際に乗れるものを作りたい!ということで、歴史の授業の中での一コマになるということですが、これがなかなか本格的。

 

 

担当の先生も一生懸命サポートし、模型と実車を作るそうです。

 

 

実際に乗れるものができると楽しいですね。

楽しみに続報を待ちましょう!

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コメント: 2
  • #1

    岡田 頼典 (火曜日, 29 12月 2020 12:43)

    高校生も、郷土の偉人さんに興味を持たれたのは素晴らしいことですね~。

  • #2

    小池一介 (木曜日, 31 12月 2020 20:31)

    なかなかこうした体験で考えてみることは意味深いですね。久平次さんの時代には『木ネジ』やボルト・ナットなどはありませんでした。釘は当時は和釘、舟釘で、製造方法も『抜けないための摩擦のかけ方』も違います。種子島に鉄砲が入って来た時、一番苦心したのは銃身の後ろにふさぐために設置されたネジのフタでした。クランクは人がこいで歪まないためには、直径12mmφ以上ぐらいの鋼でないといけない。軟鉄だと歪みます。しかし、直径12mmの鋼鉄の丸棒は通常曲げられません。私は自転車用のニッケル・バナジウム・クロムモリブデンの0.8mm厚で直径14mmのパイプを曲げていますが、直角に2度は曲げられませんね。あと、車輪は木材を板に製材したものから車輪を作ると、木目の関係で端が欠けます。そうかといって輪切りにすると、木の性質上、必ず幹の中心に向かってヒビが入ります。写真で見ると合板の車輪ですが、昔は合板接着技術はありませんから、昔の人たちはずいぶん今の人とは違う智慧と技術で解決していました。久平次さんは門弥の陸船車を『重い』と批判しており、『桐』を使うことを書いています。そうすると、桐は全外皮応力構造の『ボート型ではもたない』ので、久平次さんはこれも別種の解決をしたはずです。