先日、倅が英語の勉強をしている際に、辞書を持っていないことに気がつきました。
辞書もないのに勉強なんかできるかい。
昭和生まれの私はそう思い、尋ねてみました。
父「辞書は?」
子「ないで」
父「学校で必要ないの?」
子「使ってない」
どうやらインターネットで調べるから辞書はいらないよう。
また別の日。
母「パワポはテストに出るから、覚えときや」
子「わかってる」
父「パワポ?何それ美味しいの?」
子「パワーポイント。技術のテストに出るねん」
また別の日。
CM「もしも、ピアノを弾きこなせたら。そんな夢を、誰もが叶えられるようになるんです」(ドコモのCMより)
父「え?何これ怖い。勝手に手が動いてピアノを弾くの??」
なんだかよくわからない時代になってきました。
外国語は勉強しなくても機械が同時通訳し、ピアノは練習しなくてもプロと同じ腕前で演奏ができ、音楽はCDやレコードを買わなくともパソコンが流してくれる。
我々の努力とか忍耐による達成感や熟練の技といったものは、無駄なものになってしまうのか?
私が言っていることは、ただの年寄りの郷愁でしかないのだろうか?
そんなことをあるお檀家さんと話していると、その方はこうおっしゃいました。
「それは全て電気があってのことです。電気がなくなれば、パソコンも動かずスマホも使えず、何もできなくなってしまう。しかしアナログな技術は、道具があれば物を作り、楽譜があればピアノも弾ける。やはりアナログも大事なんですよ」
私は溜飲が下がる思いがしたのと同時に、あるシーンを思い出しました。
名前もどんな映画かも忘れてしまいましたが、みんながパニックで慌てふためいているときに、やにわにピアノとバイオリンを弾き出し、それに聞き惚れた群衆が落ち着きを取り戻す、と言うシーンです。
あのみんなの落ち着きは、電気を通じて誰かの猿真似のピアノではきっと出ない物でしょう。
新しいものを頭から否定するつもりは毛頭ありませんが、やはりアナログもある程度は残しておくのがバランスなんだろうな、と思う今日の一幕でした。
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Thomas wise (水曜日, 02 3月 2022 17:24)
そろばんもできた方がいいでしょうね~
たかchan (水曜日, 02 3月 2022 18:52)
すてきな檀家さんです。
アナログでないとできない事はまだまだたくさん残っていますね。
大切にしたいです、人として。
転輪坊 (月曜日, 07 3月 2022 05:02)
『筆跡』つまり『書』は、キーボードのデジタルには置き換えられません。お茶の世界では『墨蹟』が大切にされますが、『字は活字のように巧みでも墨蹟にならない』。うまくなくてもよい書、味わいのある書は成立します。白隠さんの字や大燈国師の字は『技術を超えた全人格的な感じがします』。英語でもいまは学校で筆記体を教えませんが、観察すると、ブロック体では時間がかかるので、若い人には画面を見ながら、あるいは英語を聴きながらメモをとれない人が多いですね。『録音すればいい』という人もいるかもしれませんが、自分で何か意見や原稿をまとめるとき、録音の聴き直しでは決して効率的にまとめられません。英語でもみごとな筆記体で手紙をもらうことが少なくなりました。寂しい限りです。
山主 (火曜日, 08 3月 2022 09:34)
みなさま。
コメありがとうございます。
学ぶの語源はまねぶから。
まねることとコピーすることは自ずと違います。
今はAIが主流になりつつありますが、アナログがなくなることはないだろうと信じています。