合わす手の尊き哉。

先月、あるお檀家さんがなくなりました。

毎年、ご両親の祥月命日には本堂でお経を上げるためお姉さんと2人で来山され、また月命日には欠かさず墓参りをし、その際にお寺に寄って「これ、本尊さんにあげてください」とおっしゃってお花を供えていかれる、そんな信心深く心のお優しい方でした。

 

お会いするといつも「山門の言葉、いつも楽しみにしています」とおっしゃり、時には「今回の言葉はどういう意味?」とか「今月の言葉はいまいちピンとこないね」などと、感想も率直におっしゃってくださる、檀家と住職というより茶飲友達のような、そんなざっくばらんな方でした。

 

ご遺族の希望で満中陰までの間は正覚殿でご供養しています。

 

先日、護持会の会議が開かれました。

護持会役員さんの1人が本堂にご本尊さんへのご挨拶に行かれたあと、祭壇を見つけた役員さんは「どなたかお亡くなりになったのですか」と質問なされました。

「ご遺族の希望で中陰の間こちらでご供養差し上げております」

そうお伝えしたところ、その方は何も言わず正覚殿に戻り、祭壇前に座りお線香をつけ、静かに手を合わせてくださいました。

私はその後ろ姿を見つめながら、一緒に合掌をせずにおれませんでした。

 

おそらくお二人が生前にお会いされたことはないでしょう。

ただ、同じお寺の檀家同士。

それだけのご縁、と言ってしまえばそれまでかもしれません。

しかしその役員さんは心を込めて手を合わせ、静かに祈っておられました。

 

お寺で供養をする意味合いというのはこういうことにあるのかもしれないな。

 

寒い本堂の中に一陣の春風がそよいだような、ほっこりとした温かい気持ちになりながらその日の会議に臨ませていただきました。

 

宗教不在、人情無用の時代となり久しいですが、只管に手を合わせるその行為が人を温め心を優しくすることができる、ということを私にしっかり教えてくださった一幕でした。

 

ありがとうございました。

合掌。