四百年以上の歴史がある長松院。
井伊直政公の火葬跡地として有名ですが、実は他にも隠れた有名人が眠っています。
このコーナーでは「仏縁あって」と銘打って、その先人たちに光を当てていきながら、長松院の知られていない歴史を読み解いていきたいと思います。皆様からのご教示を合わせてお願い申し上げたく思いますので、何かご存知の方があれば教えていただきますようどうぞよろしくお願い申し上げます。
ここ一週間で、三人の方々がお寺を訪れた。
一人は東京より自転車の歴史研究家。
もう一人は彦根の歴史研究家。
最後は図書館の情報学研究所の方。
全員のお目当ては自転車を世界で初めて作った男についてである。
自転車を世界で初めて作ったのは、ドイツのドライジーネであると言われている。
1817年のことだそうだ。
しかし、彼の作った自転車は下の写真のようにペダルがついておらず、正しくはキックスケーター、バランスバイクのようなものといった方が正確だ。
自転車にまだ乗れない子供が足で地面を蹴りながら走るアレである。
幼稚園児などの未就学児が自転車に乗る前段階の練習として最近また注目されてきているという。
現代式のペダルを漕いで前に進む自転車の発明はフランス人発明家ピエール・ラルマン。
小説「赤毛のアン」の中で彼女が乗っているあの自転車を想像したらわかりやすい。
これが1863年くらいのことだそうである。
しかし、その発明から遡ること129年前にすでに自走式の自転車がここ彦根で発明されていたことが明らかになった。
その発明家の名前は「平石久平次時光」
彦根藩士である。
久平次は元禄9年(1696) 弥右衛門繁清の子として生まれる。
幼名を作之介、のちに時光と改名する。
祖父重好の姉(大光院)は彦根藩第4代藩主直興に仕え、8代藩主掃部頭直定の母となった人物である。
幼い頃より学問好きで、20歳頃京都に上り和算数学の祖、関孝和の高弟の中根元珪の弟子となる。
出来が良かった久平次は塾内でもメキメキと頭角を現し、ついには師の代行で授業を行うまでになる。
そこで天文暦学や和讃数学の勉学に励み、28歳のとき「皇極運暦」という暦の本を著し、
実現こそしなかったが、幕府も真剣にこの皇極運暦を基本に暦の改革をしようとしたとさえ言われている。
29歳の時に新製日本天文分野図を作り上げ、正確な地図も観測機器もない時代に地球上での彦根の位置を三十五度三十分と算定した。これがどれだけ正確であったかという証左に、それから100年余りののち、文政年間に日本で初めて全国を測量して歩き、正確な地図を作成した伊能忠敬が彦根付近の街道を測定した際、その位置を三十五度十六分と測定したことが挙げられる。
久平次にいかに非凡な才能と優れた技術があったかが窺い知れる一つのエピソードである。
ある日、江戸詰をしていた藩士が彦根に帰り、雑談をしていた。そばを通った久平次はこんな話を耳にした。
「江戸ってとこはなんでも集まる街だねえ。先日は陸を走る舟とかいう代物を見たよ。ありゃあなんとも、けったいなもんだったなあ。これからはあんなもんが道を走るようになるもんかねえ」
「まったくだ。あれにはわしも目を疑ったよ。上様へ献上されたっていうが、まさかあんなもんに上様が乗るとも思えんがなあ」
(陸を走る舟だって??)
久平次は耳を疑った。
やおら会話に割って入ると久平次は矢継ぎ早にこう尋ねた。
「お主、その舟を見たのだな?どんな作りだった?外観は?動力は?大きさはどんなもんだ?馬のように早いのか?材質は‥」
「おいおい。そんなこと聞かれても私にはわからないよ。ただ、ヘー、ナンジャコリャってなもんで眺めていただけだもの。なあ?」
「そうそう。遠くから眺めただけで、乗ったわけじゃなし。ま、乗ったところで仕掛けまでは想像もつかないよ」
久平次の鼓動は激しくなった。
(陸を走る舟!そんなものがあるなんて。。。実物をこの目で見て見たい。この手で触りたい。乗って見たい。いや、作って見たい! 作って彦根の街を走らせてみたい!)
九平次は早速、上司に掛け合って江戸に上る上申書を提出、許可をもらって陸舟車を見に一路江戸へ。
しかし、本物を見ることは叶わなかった。
何しろ陸舟車は8代将軍吉宗への献上物。
一藩士の久平次に見ることなど到底叶わない。
(見ることが叶わぬのなら、なんとかして資料を集められないか)
久平次は持ち前の粘り強さで、なんとか陸舟車の資料を手に入れることに成功する。
しかし苦心して手に入れた資料ではあるが、設計図と呼ぶにはあまりにもお粗末。
それもそのはず、陸舟車を作ったのは作ったのは武州(埼玉県本庄市)の農民、庄田門弥である。
外観の絵が数葉と解説がぽつんぽつん。
のちに「からくり門弥」と称されるほどの利発者、頭の中で設計図を描き作成したものであろう。その資料は実物を見たものが書き写したようなものであったろうと想像される。
(これでは参考にもならん。やはりこうなったら、自分で作り上げるしかなかろう)
諦めてがっかりするどころか、久平次は気持ちも新たに彦根に意気揚々と帰るのであった。
苦心の結果、久平次は奇妙な乗り物を作り上げた。
見た所それは舟のような形をしている。
しかしよく見ると、舟底には前に一つ、後ろに二つ、合計三つの車輪がついており、しかもその車輪にはなにやら棒のようなもの、円盤のようなものが取り付けてありそれぞれが連動するようになっている。
さらに驚くべきことに、その棒には互い違いになった下駄が取り付けてあるではないか。
またなにやらくわのような丁字になった棒が一本、舟の中央に突き刺さっている。
何が何やら、当の本人以外は全く理解に苦しむ作りである。
「よし、試運転だ」
意気揚々と久平次は舟、いや自走車というべきか、を漕ぎ出す。
どうやらそれは船頭のように立って乗り、下駄の部分を交互に踏みながら進むようだ。
もちろん彦根の街は大騒ぎである。
「久平次が舟に乗って街を走ってる!」
「アホ抜かせ。船は琵琶湖を走るもんじゃ。道路を走ってたまるかい」
「久平次がけったいな乗り物を作ったんじゃ!」
「なんじゃそりゃ、みんなで観にいこ!」
犬は吠えるわ子供は追っかけるわ。
てんやわんやの大騒ぎ。
町中の注目を浴び、得意満面の久平次はさらに力を込めてペダルを漕ぎだす。
舗装などされていないこの時代、ガタガタでこぼこの道ではあったが、時速およそ14kmで走ることができた。
新しい乗り物、陸舟奔車の登場である。
しかし、久平次の陸舟奔車が陽の目を見ることはなかった。
道路はもちろん舗装などされていない。
ショックアブソーバーなど考えもつかない時代である。
乗り心地は決して良いものではなかった。
さらに未舗装の道路を走るため故障も多い。
何せ素材は木である。
まだまだ改良の余地は残っていた。
また、時代の後押しもなかった。
徳川幕府は大衆の一般往来を極端に嫌った。
大きな川にはあえて橋をかけず、人々の往来はむしろしづらいように据え置かれた。
さらに時の将軍は、質素倹約を是とする八代吉宗。
「新規御法度」という触れを出し、新しい発明を厳しく禁じた。
いかにあろうと久平次も彦根藩士。
法を犯してまで陸舟奔車を改良していくことはできなかったであろう。
陸舟奔車は次第に歴史の彼方に忘却され、自転車として再び歴史の表舞台に登場するまで130年の時を要することとなる。
久平次の残した発明の数々が書かれた書物や遺品は菩提寺である長松院の境内に三重塔を建立しその中に収蔵された。
しかしその書物は、当時関東に住んでいた子孫によって掘り起こされ、東京に運ばれた。
しかし不運が重なる。
その数年後、未曾有の被害を引き起こした関東大震災によって、資料の全ては灰燼に帰すこととなり、久平次の資料として残っているのは彦根博物館に残された数葉の資料だけとなる。
長松院に残された三重塔は大梵鐘、鉄製の地蔵尊とともに太平洋戦争の号令のもと供出され、今は土台だけが当時の面影を留めるのみである。
久平次は今も長松院墓地にひっそりと眠っている。
了